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茶の歴史HISTORY

 中国茶は、コーヒー・ココア( チョコレート )と並び世界中で飲用されています。その広範囲への普及は効能のすばらしさがあってのことですが、世界的に見て栽培地が限られていたことから、希少資源として争奪戦の対象となった時期もありました。

 日本には、緑茶と紅茶が時期を隔てて伝わりましたが、緑茶の生産がほとんどという状況です。緑茶以外の市場も規模が小さいながら存在するのですから、日本でもウーロン茶や紅茶、黒茶の生産が、もう少し盛んになっても良い気がします。

中国国内での展開

「 茶は、南方の嘉木なり。( 茶経 )」:
 中国茶の起源を、紀元前 20 世紀頃の雲南省に求める説があります。茶の木の葉を「 薬草 」として利用することが契機となったとされます。

 カフェインによる覚醒、また、体調を整える効果などから茶は飲用されるようになり、7 世紀 唐の時代には、飲茶の習慣が上流階級に普及してゆきました。この時代には、蒸した茶を飲んでいたことが、陸羽の「 茶経 」から読み取れます。当時は保管や持ち運びに便利な固形茶( 餅茶・片茶 )を、ばらばら、あるいは、粉末にして茶釜で煮立てて飲んでいました。

 中国の人々の評価基準は、香り・味覚・外観です。これは現在に至るまで変わっていません。また、植物としての日当たり、生育環境といった要素も重要視されています。

 南方の政権である宋の時代( 首都 南京 → 杭州 )に、中国全土の上流階級へ、そしてさらに庶民階級への普及が進み、さらに、人々の嗜好に合わせた、生産方法の多様化( 商品の多様化 )が試みられます。
 
 中国は南部は軟水ですが、北部は硬水で、硬水にあわせた商品開発も進みました。17 世紀 明の時代( 首都 南京 → 北京 )には青茶や紅茶が作られるようになり、喫茶の習慣が庶民にまで定着してゆきます。
 香りと外観を重視する嗜好から、茶を炒るようになってゆきます。( 中国では、現在でも蒸し茶を作っていますが、日本への輸出向けがほとんどで、蒸し茶の中国国内消費はごく少量です。)

 清の時代には、モンゴル人がバター茶を飲んでいたこともあり、茶に他のものを混ぜる習慣が中国全土に広まることになりましたが、漢人政権に代わると、再び何も入れずに味覚を味わうようになります。

チベットへの陸路による輸出、モンゴル・ロシア( Cha ルート )

「 茶馬古道 TEA HORSE ROAD 」:
 古くより交易はあったようですが、宋代 10 世紀には、茶は辺境の民族との間で重要な交易物資として盛んに取引されました。そこでは、遊牧民であるチベットの人々にとって、兵器である、貴重な馬と交換されました。
 現在でも、政府管理の茶馬互市と需要地・供給地とを結ぶ茶馬古道の遺跡に、交易路の名残を見ることができます。

 当時は距離が 5,000 kmにも及び、峻険な山脈を抜けてゆくこの山道を、人や馬が背負って運んだのですが、数ヶ月間の旅程で茶が雨に濡れ、黒麹菌などが微生物発酵することで黒茶( プーアール熟茶など )が生まれたとされています。最終的には、インド・ネパールまで及びました。

 この偶然から生まれた黒茶は、雲南地方の多様な微生物が生成した酵素などを含み、特に、肉( 乳 )食が中心の、チベット族など、高原に住む遊牧民にとって、一日も欠かせない、果実・野菜の欠乏を補う「 栄養源としての食料 」となりました。( 現在でもチベットでは、一人当たり年間 10 数 Kg の黒茶がバター茶として消費されています。)塩漬けの肉食で短命の傾向があった、チベット族にとり、現在に至るまで、果実・野菜の欠乏を補う茶は、文字通り「 欠くことが出来ないもの 」だったことでしょう。


( イラスト;百度百科より引用 )

「 茶葉之道 TEA ROAD 」:
 モンゴルへはチベットから既に茶の流入はありましたが、宋・明の時代には、遊牧民族分断政策の下、チベット以外との直接取引はおこなわれませんでした。

 茶による健康維持の効果を知り、茶依存症に陥ったモンゴルは、16 世紀 明の時代に武力侵攻を繰り返し、和議の結果、朝貢貿易の形で茶馬交易が始まります、モンゴルでもチベット同様、黒茶にバター( ミルク )、塩を混ぜて、バター( ミルク )茶として飲まれました。

 モンゴルとロシアの国交が開かれた際に、ロシアに紅茶が伝わり、シルクロード( 丝绸之路 )などを経て、キャラバン隊が、遠くロシアまで運んでゆくようになります。広東を起点とし中国本土を南北に縦断する、交易路 茶葉之道、そこからさらに、丝绸之路を通じて、物資だけではなく、情報も流通しました。


( イラスト;百度百科より引用 )

ヨーロッパへの海路による輸出( Tea ルート )

 東アジア・東南アジア貿易を支配していたオランダ東インド会社( 1602 年設立 )、が、1610 年に初めてヨーロッパに日本緑茶をもたらしました。少しずつ上流階級に広まってゆく過程で、価格面から中国緑茶が中心となります。しかし、中国緑茶にしても、ちょうど同時期に入ってきた、コーヒーやチョコレートに比し、あまりにも高価なため人気を失ってゆきます。

 17 世紀後半になると、大きな変化が 2 つ起こります。中国での青茶・紅茶の新開発、そして、キャサリン王妃が持参金代わりの紅茶と砂糖を、併せて飲む習慣をイギリス宮廷に広めたことです。
 茶に砂糖を入れて飲むという習慣は、
・砂糖という当時黄金にも匹敵する高価な輸入品をぜいたくに費消しているところを見せたいというキャサリンの自己顕示欲に由来するものなのか、
・中国の王朝が清でありモンゴル族の習慣として、茶にバターやミルクと共に塩を入れることが伝わり、味覚の点で砂糖を加えることにしたのか、
・ヨーロッパ大陸は強い硬水のために、味覚の点で砂糖を加えたのか、
それとも別の理由か、明確ではありません。
 いずれにせよ少しずつ上流階級に、茶とミルクと砂糖を併せて飲む習慣が広まります。

 18 世紀前半に英蘭戦争を経て、オランダからアジア貿易の利権を奪うと、イギリスは中国との朝貢貿易を開始し、イギリス東インド会社を通じて、茶の直接輸入を始めます。

 初期には、緑茶・青茶が多かったのですが、
・緑茶・青茶に着色がおこなわれていることが発覚したことによる悪評、
・イギリスの硬水でも良く溶け出す紅茶の香りがバラに似ていて、好まれたこと、
などの理由から、18 世紀後半には、緑茶よりも紅茶が中心に飲まれるようになりました。

・オランダ東インド会社がイエメンからジャワ植民地へのコーヒー移植栽培に成功( 1712 年 )し、イギリス東インド会社が扱うコーヒーの価格競争力が失われた結果、イギリス東インド会社は中国茶を中心に取り扱うようになったこと、
・茶の密輸によりイギリス東インド会社が茶在庫過剰となったのに応じて、茶輸入関税を大幅に引き下げたことに応じて相場が下落し、庶民に普及し始めたこと、
などの理由から、イギリスでは、中国茶の輸入量が増加する一方、銀の輸出超過が問題になります。

 19 世紀には大きな変化が 2 つ起こります。アヘン戦争とイギリス東インド会社による植民地での茶栽培開始です。
 当時の中国には、輸入する必需品が存在せず(「 地大物博 」)、イギリス東インド会社は紅茶の代金を銀で支払っていましたが、イギリスの銀在庫は底を突きつつありました。
 イギリス東インド会社は、インドでアヘンを栽培し、中国へ密輸させることでイギリスからの銀の流出を食い止めようとしました。しかしさらに、産業革命により起こった、ジャーディン・マセソン商会などの新興資本家は、自由貿易を理由にイギリス東インド会社の中国貿易独占廃止に成功し、さらに、アヘン解禁による取引拡大を求めて、アヘン戦争( 1840年 )を起こします。
 一方、中国に植物学者を派遣していたイギリス東インド会社は、インド植民地で、茶の変種を発見し、また、中国種の移植栽培に成功します。それぞれアッサム種( 1838年 )とダージリン地域( 1841年 )です。特に、この苦味と酸味の強い、アッサム種の大量栽培は、大きく紅茶の価格相場を下げます。

 その結果、紅茶が庶民にまで普及し、現在に至ります。

日本への伝来

 805 年〔 平安時代 〕遣唐使 最澄 が中国福建省より蒸し茶を持ち帰ったことが、日本に伝わったきっかけとなった、とされています。

 当初は、僧侶・貴族層を中心に、茶を鍋や釜で煮立てて、湯飲みに移して飲む方法が伝わりました。( 中国では煎茶法と呼ばれる。)茶の生産は、最澄が持ち帰った種子を元に、比叡山から始められました。中国国外で茶が栽培されたのは、日本が初めてでした。
 唐の衰退により、遣唐使が廃止され、平安朝が衰退するのに応じて、茶は飲まれなくなりました。

「 茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷之を生ずれば、其の地神霊なり。人倫之を採れば、その人長命なり。( 喫茶養生記 ) 」:
 宋代〔 鎌倉時代 〕には、禅宗僧栄西が抹茶法( 茶を粉にして湯を加えて飲む。日本での呼称。中国では点茶法と呼ばれる。)を伝え、僧侶・貴族層に加えて、武家社会にも広まり、少しずつ庶民にも広がってゆきます。
 さらに 17 世紀〔 江戸時代 〕には、中国〔 明代 〕から、煎茶法( 急須に入れた茶に熱湯を加えて出し汁を飲む。日本での呼称。中国では淹茶法/泡茶法と呼ばれる。)が伝わります。生産地域が拡大するのと並行して、庶民にも飲茶の習慣が定着し、現在に至ります。

 紅茶は、19 世紀になり、ヨーロッパ人によりもたらされました。

交易財としてのお茶

 茶は、世界的に見て稀な軟水地域で発見・栽培・飲用され、さらに硬水地域に拡大されてきました。
 硬水地域での飲料として、茶が戦争をしてでも入手されてきた歴史は上記の通りです。

・硬水地域の中でも、果実・野菜が入手しづらく、小麦と肉( 乳 )の食事を中心とした人々には、発酵食品である黒茶が健康維持のための必需品として、武器と交換され、

・多くの硬水地域では、他の飲料( コーヒー・ココア( チョコレート ))と競合しつつ、エールなどに代わり、覚醒効果があり健康維持に役立つ飲料として、銀の大量流出・払底を招くほど、紅茶が愛飲されました。



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 その際には、肉( 乳 )食中心で、果実・野菜をほとんど取ることができない、1 億人を超える遊牧民族が、1000 年以上の長きにわたり生命をつなぐことができているという、現在を含めた歴史的事実を、参考にしていただけるものと確信しています。




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